食糧難の時代に

 3歳で終戦を迎えた私には当時何を食べていたのかはっきりとは覚えていない。母から伝えられたことがかすかな記憶として残っているのみである。
 終戦の少し前、新宿の牛込に住んでいたとき、まだ乳飲み子の弟一人を残し、母は私の手をひいて田舎(埼玉県清瀬市)に買出しに出かけて行った。街は至るところ焦土と化し生きる希望を失った人々でごった返していた。
早朝家を出ても、また戻れる保障さえもない死を覚悟しての買出しだった。
わずかな米と野菜が母の和服と交換され。満員電車にもみくちゃにされながら家にたどり着いたときには夜も更けていたという。暗闇の中に置き去りにされていた弟の名を呼ぶと、火のついたように泣き、飛び掛ってきた。泣きじゃくって、泣きじゃくって、泣きつかれた弟が、幼いながらも諦めの心境で傍らのおもちゃで遊んでいたそのとき、母親の声が再び弟を惹き付けたのだった。結核を患っていた父は、末期まで近隣の防火のために動員され、食べたいものも食べられずにこの世を去った。

やがて都会の真ん中で戦禍も激しくなり、食糧を求めるのさえ困難をきたし、遠い親類を頼って埼玉県の本郷という農村へ疎開せざるを得なくなった。そこで母は農業を手伝いながら農村の生活環境と人間関係のなかで、ただ子供たちに食べさせることだけを満足とし、生き長らえてきた。
空襲警報がなると防空壕に入り、解除すると野良へ出る毎日だった。防空壕は母屋と雑木林との間の庭に掘られてあった。傍らに小さなグミの木があり、甘酸っぱい味が薄暗い防空壕の思い出と重なって今もなお連想させる。

 やがて終戦を迎え、親子3人は世田谷の砧公園の近くの小さな家に引っ越していった。貧しいながらも楽しい我が家、そこでどのような物を食べて私たちは育っていったのか、母はやりくりと工夫の中で台所に立っていたことであろう。盛られた茶碗の中から、さいころ型に切った根菜類を先につまんで食べ、残った麦飯を堪能した記憶がある。小学校に入学すると、給食にコッペパンと脱脂粉乳、味噌汁がバケツいっぱいに出されたが病気がちな私には、味噌汁の匂いが病院の消毒の臭いと重なって食欲がわかなかった。またコッペパンはいつも家に持ち帰った。
 ナットー、ナットー、と早朝遠くの方から納豆売りの声が聞こえると必ず呼び止めて買い求めた。戦争で片腕を無くした兵隊さんが自転車の荷台に納豆を積んで毎朝やってきた。
兵隊さんは母を見ると、戦地で世話になった看護婦に似ていると言い、涙を拭き拭き辛子をいっぱいサービスしてくれた。練りあがった納豆に細かく切った葱をいっぱいに入れ、麦ご飯にのせて口にほおばると、辛子の辛さにツーンときた鼻をつまんで親子三人顔を見合わせたのはついこの間のような気がする。
 従姉妹の家などに遊びに行くときは、母は必ずロールパンを作って土産に持たせた。サツマイモや胡桃、その他何でも家にある材料をさいの目に切り刻んで小麦粉と練り合わせ、煙突型の丸い鉄鍋に入れて弱火で焼き上げた。子供たちはみんな喜んで食べた。
私が特に好きなのはさつま団子だった。さつまの粉を水で練って片手で握り締めるとむすんだ指の形の団子ができた。それを蒸し器に入れて蒸すと程よい甘さのさつまだんごが蒸しあがった。だがさつまッ粉はなかなか手に入らなかった。
 すいとんもしばしば食卓に上がった。これは美味しくなかった。あのぼてっとした小麦粉の団子が好きになれなかった。あるとき母が編物で生計をたて始めた頃、仕上がったセーターを届けるために疎開先の近隣を訪れるようになった。幼い弟と私は清瀬から本郷へ通ずる長い道のりを母について歩いていった。柳瀬川に掛かるつり橋を恐る恐る渡ったり、せせらぎに足を浸し小魚を掬ったり、マンジュシャゲの咲く畦道を一列になって歩いたことなどは今になっては貴い思い出である。村の入り口に差し掛かると、村人たちが私たち親子をみて親しげに声をかけてくれた。ヒイラギの垣根におおわれた屋敷の門をくぐると、野良仕事から帰ったおばあさんが曲った腰を起こしながら「なーもねえだあ」と言って私たちにすいとんを作ってくれた。これは美味しかった。醤油の香りが漂い、小麦粉で作った団子はのし餅のような歯ごたえがあった。作り方の違いはあきらかであり、母が柔らかめにといた小麦粉をスプーンで掬って汁に入れているのに対し、田舎のおばあさんは餅のように練り、指先でのしているのであった。以来私はすいとんが好きになった。パン作りのようによく練って餅のように伸す作り方は子供の頃に体験したことが生かされているのである。
 囲炉裏で炒ったあられの香ばしさも忘れることができない。村の祭りの日には紐皮のような蕎麦と小豆の入った饅頭、大きく切ったスイカや黄色いマクワ瓜などお腹いっぱいになるまで食べさせてくれた。

 私にもこんな想い出があったのかと取り戻した記憶の中で思いを馳せた。蒸し芋で思い出されるのは、おいらんと言う品種、二つに割るとしっとりとした薄紫色のサツマイモが現れ、心ワクワクさせられた。これもまた今一度お目にかかりたい懐かしい食べものの一つである。しちりんに火を起こし、油ののった秋刀魚や鯖を焼いて、大根の千切りをたっぷりのせ舌鼓を打ったのはずーっと経ってからのことであろうか。それは今の食生活には無い贅沢で美味だった。

 以上私の記憶はこの程度のことである。戦時中の食糧難は戦禍の烈しい都会人にとっては深刻な問題であった。他の人々、商人や農村で育った先輩や友人にもその実態を知りたく少々尋ねて見ることにした。

 昭和20年、24歳だった義姉は当時目黒区三田に住んでいた。周囲にはドレメ洋裁学院、自動車学校、エビスビール社、海軍技術研究所(連合軍キャンプ)などがあった。自宅は、最初は渋谷区の伊達町にあるビール会社に隣接して建っていた。そのビール会社が狙われ、伊達町一帯は焼夷弾の雨が降り、昭和20年5月24日未明、焼け野原となった。しかし広大な敷地を持つビール会社はほんの一部の焼失でまぬがれた。
 海軍技術研究所に爆弾が投下され時、巨大な穴があき、その中へ36発入りの焼夷弾が不発のまま埋まり、人々も生き埋めとなった。それを軍が処理にあたったため三田町は焼失をまぬがれた。後にこの技研は接収され進駐軍駐屯地となった。伊達町の家を焼け出されてから、父親がどこからか借りてきたリヤカーに荷物を載せ転々とした。やがて焼失を免れた人たちの好意で焼け残った三田町に家を借り引っ越した。そこでも狭い庭に防空壕を掘り毎晩襲ってくる空襲と食糧難に家族ぐるみで立ち向かった。
 昭和20年8月15日終戦を向かえ。B29の四発エンジンの音の聞こえない静かな日を迎えたが苦労は続いた。神奈川県綾瀬の親類に着物だけを疎開させていたのを母親と二人で取りに行ったとき、座間駐屯のアメリカ軍の延々と続く整列にあい、雑木林に身を潜めた。食糧は僅かに残った衣類を土産に田無・習志野・栃木の農家へ出かけ、頭を下げてジャガイモ・サツマイモ・メリケン粉(これは上等品でなかなか手に入らない)などを譲ってもらった。
 米は殆ど手に入らず、街頭で列が出来れば何でもかまわず並んで入手し、あさって食べた。日本橋のとある食堂の前で大鍋で作ってくれた雑炊の美味しかったことは今も忘れない。やがて何処からともなく流行し出した銅板のパン焼き器でサツマイモ。ジャガイモをつなぎにパンを焼いて食べた。これには皆舌鼓を打ち、あり難い気持ちでいただいた。戦災者に配給になった軍の乾パンを大事にとっておき、これを弁当に持参した。
 戦後しばらくすると、大豆の絞りかすのような豆かすと赤いコウリャンの粒が入った米が少量配給されるようになった。また時にはアメリカ軍の放出救援物資の中から、プルーンが配給された。貴重なミネラル補給源だが、当時は名前も知らない食べもので、米の代わりにはならないと言いながらもその美味しさを味わった。
 しかしこの程度では食糧が満たされるわけではなく、老人、子供、若者、兵隊、復員兵みな栄養失調が原因で結核が流行し倒れる人が続出した。
妹も二十歳にして終戦の年に亡くなった。小学3年生の弟は富山県砺波郡へ集団疎開したが、そこでも食糧難でやせこけ、身体中疥癬ができて遊ぶ気力させ失って帰ってきた。エビオスを菓子代わりに与えるとオイシイと喜んで食べた。
 戦後2年経つ頃には焦土と化した町にも人々が集まり、皆、生きるために何処からか品物を仕入れてきてヤミ市ができ、何でもよく売れ、また集められていった。靴磨きのおばさんにヤミ市で買った靴を磨いてもらい、人々は束の間の幸せを味わった。そして町は次第に活気づいていった。
 やがて父親が聖路加病院の職員になると米や肉類やその他加工品、卵、果物、菓子など今まで食べたことのないものまで入手し家に持ち帰った。余った果物などは街頭に持っていくとまたたく間に売れた。しかし、ハムやソーセージなど贅沢に食べられるようになると父親は体調を崩し、丹毒が悪化し腹膜炎を起こして命をおとしてしまった。

 このように当時を回想する義姉は戦火の烈しい中でも疎開することなく、焼夷弾の雨の中逃げ回って生き延びてきたのである。更にこう語ります。
今になって生き延びた幸福を有難いと感じ、不幸にして亡くなった人たちの分まで頑張らなければならないとして自分のことより人のことを思って88歳の人生を元気に過ごしています。

青森県三戸郡を故郷にもつ友人はこう語ってくれた。
 周囲が山に囲まれた農村地帯で街に比べ戦渦に巻き込まれることは殆どなかった。防空壕に米その他の食糧を保存しても焼かれることもなかった。じゃがいも、南瓜、長いも、いんげん、アスパラ、ウド、季節に採れるものは何でも食べることができた。また山に自然に出来るもの、くるみ、あけび、木苺、野苺、土もぐり(直径10センチほどのきのこ)、まつたけ(松の木下に生える緑茶色の茸で市販の松茸とは異なる)、落葉茸(ぬめりのある茸で大根おろしと共にいただく)、桜の実、マンタム(橙色でどんぐりより長めの果実)、おんこの実(防火の木と言い、緑の葉に赤い数珠球のような実がなり、中の果肉を食べる)などを食べていたと語る友人は昭和17年生まれ。

 15年生まれの少し先輩に尋ねると、やはり農村出身。木の実や山菜は勿論のこと畑で採れるものは何でも食べられた。内釜と外釜があり、外釜にはいつもサツマイモば蒸してあり、子供がお腹が空くとおやつ代わりに食べていた。ご飯は白米と麦、粟などが混ぜて炊かれた。麦や粟は上の方に浮き上がって炊けるので、いつも下からよそって美味しい白米を食べた。親たちはそれを知っていても黙って許してくれていた。大根飯などは炊いたことはなかった。

 新宿区下落合で運送業者の子供だった16年生まれ友人記憶によると、街は焼かれずにすんだため、食べるものに困ることはなかったという。野菜は裏の空き地で作り、近くには総菜屋があり、コロッケなどの揚げ物はいつでも食べられた。商店同士の買い物は互いの商売を生かして物々交換された。互いに助け合い貧しい中でも活気があった。近くに米軍が経営する聖母病院があり、子供たちはキャンデイやチョコレ−トをもらいにしばしば訪れた。

 練馬区江古田の商店街に住んでいた17年生まれの友人はこう語ってくれた。幸い戦火からは免れたが隣の町は一面の焼け野原となった。商売といっても紳士服の制作では仕事にならず、少しでも家計の支えになるために幼少の頃から外に出て働いた。とはいっても働く場所などはなく焼け跡に行っては銅、すず、鉄くずなどを拾い、ヤミ市で高く買ってもらった。またヤクルトなどの清涼飲料水を作っては売り歩き、少しでもリベートを稼ぎ生活費に当てた。その他仕事になりそうなことは何でも自分で考え実行した。商売の方法などは子供の頃からすでに身につき、何事にもへこたれない精神力が養われた。食べものは鳥の手羽先など、当時は捨てていた部分を安く買い求め、母親が工夫をして料理した。その母親も戦後の食糧事情の悪化と過労のため父親の後を追うかのようにこの世を去った。
彼は後に、労働者の生活と権利を守るために労働組合の書記を長年勤めた。

最後に南朝鮮(韓国)から引き揚げてきた昭和13年生まれの友人が思い出したくないと言いながら語ってくれた。引き揚げ後、広島の片田舎で貧しい生活を余儀なくされた。13歳年上の姉が妹弟と父親の食事の世話をしていた。釜に水をいっぱい入れ、僅かな米と麦またはイモ類や南瓜を入れて炊き、釜の底にある米を掬うように器によそい食べた。米櫃にある米はいつの間にか盗まれて量が減っていた。隣同士の米の奪い合いが行われていたのである。
やがて海軍の医者である兄が引き揚げてくると村人たちの診療が食糧と交換され少しずつ野菜などを補えるようになったと。

 戦争によってこのような悲惨な食生活状況を絶対に二度とつくってはいけない。
未だに地球上で戦争と飢饉に苦しんでいる人々がいる。戦争は時の一部の権力者が私欲によって多くの弱者や有能で常識のある人たちまで巻き込んでいく野蛮な行為である。
戦後、何とか食べることができた人だけが生き延びることができた。やがて食糧が安定すると粗食から開放され、食生活は欧米化し、諸外国のものや季節外れのものまで入手し、飽食時代を迎えた。その結果成人病などの病人が続出し、食糧事情は混乱に陥り、逆に粗食のすすめなどが提唱されるようになったのは皮肉なことである。子供のアレルギーや若い女性の貧血、低年齢層の成人病など先々の不安をかかえ、結論の出ない波紋が広がっている。

   
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[総理になるためのお勉強]

下記は開運道村長さんの世評を掲載させていただきます。

 では、下記の読み方からです。
 1、参画ーー1・さんかく、2・さんが。
 2、措置ーー1・しょち  2・そち。
 3、請負ーー1・うけおい、2・うけあい。
 4、頻繁ーー1・はんざつ、2・ひんぱん、
 5、未曾有ー1・みぞう、 2・みぞゆう。
 6、所信ーー1・しょとく、2・しょしん。
 7、踏襲ーー1・とうしゅう2・ふしゅう。
 
 正解は?
 A、出題奇数=解答1、出題偶数=解答2、です。
 あなたは何問できましたか?
 1問でも正解があれば、現総理より読解力は上です。
 上の出題は、現総理が間違えた言葉のほんの一部です。
 でも、人間ですから間違いはあります。
 ましてや総理の激務は多忙、この程度のミスは仕方ありません。
 残り少ない総理のイス、温かい心で見守って上げてください。

 さて、あなたが全問不正解でしたら、総理になれるます。
 毎日マンガを読んで、ホテルのバーと秋葉原に通ってください。
 マンガには世相、人情、夢がいっぱい含まれています。
 夢で国民をだますのは簡単、少しお金をバラまけばいいのです。
 一時的に、少しでも景気が上向けばしめたもの増税をセットです。
 踏ん反り返った姿勢とペコペコ姿勢の切り替えの早さも大切です。
 しかし、これだけでは総理にはなれません。

 一般に、成功の方程式は、
「才能を磨き努力して実力を発揮し幸運に恵まれること」です。
 でも、総理になるのは、次の条件を満たさねばなりません。
「政治家血筋で資産家、大派閥に属し裏工作でライバルを抹殺」
 運動資金を使って、組織の長や貧乏議員を釣らねばなりません。
 それとウソが上手でないといけません。口から出任せも必要です。
 父や祖父が政治家であることも大切な要素です。
 名誉欲が強くて非情で大ウソつき・・・これは絶対条件です。
 以上を参考に、総理に立候補するかどうかお考えください。
 あなたはいかがでしたか? 総理になれそうですか?
    村長





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